閘門開閉実演 【埼玉県さいたま市緑区:見沼通船堀】

見沼通船堀・閘門開閉実演 見沼通船堀・閘門開閉実演 見沼通船堀・閘門開閉実演 見沼通船堀・閘門開閉実演 見沼通船堀・閘門開閉実演 見沼通船堀・閘門開閉実演 見沼通船堀・閘門開閉実演 見沼通船堀・閘門開閉実演 見沼通船堀・閘門開閉実演

見沼通船堀とパナマ運河

見沼通船堀は、さいたま市の南部に位置している。1731年、東西の見沼代用水路と芝川を結んで作られ、東西二ヶ所の関(閘門)を設けた。見沼代用水路と芝川との3メートルの水位差を調節して船を通すという、我が国有数の古さの閘門(こうもん)式運河である。このような形態の運河で、世界的有名なのが太平洋とカブリ海を結ぶ「パナマ運河」がある。パナマ運河は大正時代1914年に建造され規模が非常に大きいものである。見沼通船堀は、江戸時代中期に建造、規模は小さいがパナマ運河より180年以上も歴史が古い。

船が一の関を通過 「船が一の関を通過」

一関の角落(かくおとし) 「一関の角落(かくおとし)」

見沼代用水路とは??

かつて、さいたま市東部には、縄文時代の海進によって出来た「見沼」という広大な沼があった。江戸時代初期の「見沼」は"溜井"にその姿をかえて農業用水源とされていた。八代将軍徳川吉宗は、年貢米増収の手段として、この「見沼」を"田んぼ"に変えた。この見沼田んぼへの新たな水源として利根川の右岸(現、行田市)から60kmにも及ぶ用水を引いた。この用水は、以前の「見沼用水」に変わるものということで「見沼代用水路」と呼ばれるようになった。

見沼通船堀

見沼通船堀は、我が国最古の閘門式運河である。通船堀は、付近の村々から芝川に結び荒川に出る、隅田川を通って江戸に年貢米や野菜などを運んだ。江戸からは肥料、塩、魚類荒物などが運ばれた。船を通すのは、田んぼに水を使わない時期で、秋の彼岸から春の彼岸までだった。

見沼通船、ひらたぶね 「見沼通船、ひらたぶね」

見沼通船堀の仕組み

代用水と芝川との間に水位差が3㍍もあったため、それぞれ関を設けて、水位を調節し船を上下させた。A江戸から物資を積んだ船が、上げ潮にのって芝側に入る。B一の関を人力で綱を引き通過させる。B'一の関の関枠に「角落(かくおとし)」と呼ばれる板をいれ、水位を上げる。C船が二の関を通過。C'二の関の角落板が入れられ、船は代用水へと進み、上流の地域に物資を運ぶ仕組みとなっている。

見沼通船堀の仕組み 「見沼通船堀の仕組み」

見沼通船と船頭

かつては八丁河岸に多くの船頭が居住し、現在も八丁橋の脇にある水神社(すいじんじゃ)は水難防止を祈願して祀られたものである。市の無形民俗文化財にも指定されている「見沼通船舟歌」は、船頭が江戸との往復の際に、船の操作に合わせて口ずさんで歌った仕事歌である。地元の地名などが織り込まれ、船頭やその家族の暮らしぶりがうかがえる。現在は、地元の婦人会を中心にした保存会に歌い次がれている。

見沼通船舟歌保存会 「見沼通船舟歌保存会」

水神社 「水神社」

船の差配役、鈴木家住宅

享保16年(1731年)見沼通船の許可が幕府から出されると、鈴木文平、高田茂右衛門の二人が見沼通船差配に命じられた。江戸に通船屋敷を設けて差配し、出張所にあたる通船会所は、川口宿、八丁堤、新染谷村、北袋村、上瓦葺村の六ヶ所に設けた。鈴木・高田の両家は江戸の通船屋敷において、通船の経営にあたったが、後に、鈴木徳次郎の代になると、みずから八丁の会所(八丁河岸)に出向いて事務をとるようになった。現在、鈴木家は母屋、米蔵、その他の建造物が残り、一部の改造はあるものの江戸時代後期の建立であるとおもわれる。見沼通船堀は江戸時代中期の土木技術や流通経済を知る上で貴重なものとして、昭和57年に国の史跡に指定された。あわせて見沼通船の差配役を務めた鈴木家の住宅も指定された。

鈴木家住宅 「鈴木家住宅」

鈴木家住宅付属建物 「鈴木家住宅付属建物」

昔の農器具、唐箕(とうみ) 「昔の農器具、唐箕(とうみ)」

35.8629775,139.714853
名称見沼通船堀
住所埼玉県さいたま市緑区大字大間木・下山口新田
電話番号048-829-1723