鷹の伝令で、清水勇人さいたま市長が開会宣言。城下町岩槻鷹狩り行列がスタートした。
鷹匠15名を先頭に将軍鷹狩り行列は、岩槻城主が将軍を出迎えたとされる城への入口「加倉口御門外」(現、本町一丁目)付近を出発した。
鷹匠(たかじょう)=鷹の訓練調教師
鷹狩りは、タカ科のオオダカ、ハイタカ、ハヤブサ科のハヤブサ等を調教し、鳥類やウサギなどの小動物を捕らえさせた。
将軍様の前列に、組頭を含め徒侍7人組が行進した。
徒侍(かちざむらい)=将軍の外出時に徒歩で身辺警護を努めた下級武士。
徳川家康は、慶長14年(1609)の3月に岩槻城が火災で焼失した同じ年の12月に鷹狩りを行いながら岩槻城の復興状況を見に、たびたび岩槻を訪れていた。
岩槻黒奴20人を先頭に将軍様を出向かいに行進する岩槻藩行列。岩槻黒奴は、日光の赤奴、甲府の白奴と共に日本三奴と称されている。
岩槻藩行列は、岩槻藩主、姫、腰元と続いた。岩槻藩は、武蔵国埼玉郡(現在の岩槻城址公園)に存在した藩、居城は岩槻城である。
岩槻藩行列、徒侍3人組の後に薙刀を持った侍女頭を先頭に侍女18人が続いて行進した。
岩槻藩侍女頭を先頭に、侍女薙刀(なぎなた)のパフォーマンスを披露。薙刀は、江戸時代に「女性の武器」として使用された。女性は男性より非力のため、遠心力を利用して相手を殺傷する武器である。足軽の槍と同じく女性の薙刀も集団で使用するのが基本である。
かつて、岩槻城の城主の娘に鶴姫という女性がいたという。そんな鶴姫は、岩槻の桜が大のお気に入りと云われていた。しかし鶴姫は若くしてなくなった。この鶴姫を祀っている「鶴姫大明神」が岩槻区真福寺貝塚の付近にある。
将軍の鷹狩り行列と出迎える側の岩槻藩行列が日光御成街道(現、本町3丁目)で対面式が行われ、セリフ入りパフォーマンスが披露された。
日光御成街道(現、本町3丁目)で、鷹匠(たかじょう)が擬似鳥の獲物を用いて、実際の捕獲するところを実演すると、沿道の観客から喝采を浴びていた。
日光御成街道(現、本町3丁目)で将軍様の放鷹(ほうよう)の実演。鷹匠(たかじょう)が訓練した鷹を将軍様が手に据えて(止まらせて)待ち構え、獲物目がけて鷹を放ち捕まえさせる娯楽の狩りである。
鷹狩り行列と岩槻藩行列が岩槻小学校校庭に入場。将軍のお出迎え、黒奴・子供奴による奴振り披露、鷹匠(たかじょう)による放鷹(ほうよう)実演、行列役柄の実演などが披露された。
城下町岩槻鷹狩り行列のフィナーレは、参加者全員の役柄などが紹介され、大勢の観客の拍手を浴びていた。
徳川家康は、鷹狩りをしながら何度も岩槻を訪れていた!!
江戸時代、徳川家康は鷹狩りを好んでいた。その家康は、慶長14年(1609)の3月に岩槻城が火災で焼失した同じ年の12月に、鷹狩りを行いながら岩槻城の復興状況を確認しに来るなど、たびたび岩槻を訪れていたと云われている。その折、岩槻城主は、加倉口御門外で出向かいをしていたと云われている。鷹狩り行列では、岩槻城主が将軍を出迎えたとされる城への入口「加倉口御門外」(現、本町1丁目)付近を出発し「日光御成街道」を岩槻小学校まで約1キロメートルを練り歩いた。出迎える側の岩槻藩の藩主行列は、岩槻小学校から出発し街を練り歩き、途中で将軍の鷹狩り行列と合流、鷹の放鷹(ほうよう)実演、黒奴の奴振りの披露、将軍や藩主、目付、若年寄りなどのセリフ入りのパフォーマンス、侍女の薙刀(なぎなた)演舞、小十人組の演舞などが披露された。今回で第2回目を迎える「城下町岩槻鷹狩り行列」には、鷹狩り行列73人、岩槻藩行列63人、鷹15羽、馬1頭が参加し、大勢の観客で賑わった。
岩槻の歴史は、長禄元年(1457)太田道灌によって岩付城(岩槻城)が築城された。戦国時代には道灌の曾孫・太田資正は名将として名を轟かせた。昭和29年(1954)1町6村が大合併して岩槻市となった。平成14年(2002)、公職選挙法の選挙区改正などで、さいたま市への編入合併へ至る要因の一つとなった。平成16年(2004)さいたま市との合併協定の調印式が行われ、平成17年(2005)さいたま市に編入され、さいたま市岩槻区となった。
撮影日: 2014年11月3日
撮影場所:岩槻御成街道周辺
住所:埼玉県さいたま市岩槻区本町3丁目周辺