
吉見百穴(よしみひゃくあな)は、古墳時代後期(約1400年前)の横穴墓群の遺跡である。洋戦争下の地下軍需工場建設のために破壊された十数基を除いても、219基が現存している。

吉見百穴は、江戸時代の中頃には既に数基の横穴が開口しており、の人々から「百穴(ひゃくあな)」と呼ばれていた。

明治20年(1887年)横穴の性格を明らかにするため、約6ヶ月間に及ぶ全面発掘を行い237基の横穴墓を発掘した。人骨のほか、古墳時代特有の土器や金属器などの副葬品も出土した。現在219基の横穴墓が現存している。

「横穴墓(よこあなぼ)」
構造のひとつ2棺座。遺体を安置するベッド状の段差が「玄室(げんしつ)」内に2つ設けられている。家族や血縁関係にある複数の人物を埋葬するために採用された形式であると推測される。ちなみに、「玄室」とは遺体や棺、副葬品を安置する一番奥のメインルームである。

横穴墓の規模は、直径約1メートルの穴がメインであるが、一部には一際大きな洞窟のような穴も存在する。

ヒカリゴケ(光蘚)は、コケ類の一種であり、黄緑色の光りを放っているように見えるところから、この名がついている。生育には一定の気温と湿度を保つ環境に恵まれることが必要で、この条件に合った吉見百穴の横穴墓内にはヒカリゴケが自生している。

吉見百穴の地下には、太平洋戦争末期に建設された「旧中島飛行機地下軍需工場跡」が残されている。激化する米軍の空襲を避け、航空機(通称:零戦)のエンジン部品を地下施設で安全に製造するために造られた。この突貫工事により、当時存在していた横穴墓が十数基破壊された。

「日朝平和友好親善植樹」
地下軍需工場の建設工事は、昼夜を問わない苛烈な突貫工事として進められた。地下掘削工事の主力となったのは、全国から集められた約3,500人におよぶ朝鮮人労働者である。掘削工事に従事した最後の人の帰国に際し、日本と朝鮮との平和を希望して植えられたムクゲの木は現在でもこの地で成長を続けている。

吉見百穴の見晴らし台からは、東松山市街地の街並みや秩父の山並み、天気の良い日には富士山や武甲山を望む美しい景色が広がっている。

吉見百穴の構内にある「吉見町埋蔵文化財センター」館内の展示室には、吉見町内の古墳から発掘された埴輪や土器、古墳時代の木製農具、国の史跡である「松山城跡」に関する資料などがわかりやすく紹介されている。
横穴の墓場群!!
「吉見百穴(よしみひゃくあな)」は、6世紀末〜7世紀後半に造られた国内最大級の群集横穴墓(よこあなぼ)である。岩肌に無数の穴が開いた異様な景観は「日本のカッパドキア」とも呼ばれ、国の史跡に指定されている。吉見百穴が分布する丘陵一帯は凝灰質砂岩(ぎょうかいしつさがん)と呼ばれる掘削に適した岩盤が広がっており、当時の人々はこうした場所を選択して横穴墓を造ったと考えられる。太平洋戦争末期(1944〜1945年)には、戦局の悪化に伴い吉見百穴一帯の丘陵斜面に地下軍需工場が造られ、巨大なトンネルが数多く掘られた。そのため十数基の横穴墓が壊され、現在確認されている横穴墓の数は219基となっている。一部の横穴には、国の天然記念物に指定されている「ヒカリゴケ(光蘚)」が自生している。主に北海道の知床半島や長野県佐久市など、 空気がきれいな冷涼地に生育している。
「吉見百穴」のある「吉見町」は、埼玉県のほぼ中央に位置し、比企郡に属する人口約1万6千人の町である。豊かな自然と歴史的遺産にめぐまれ、のどかな田園風景が広がり、県内トップの生産量を誇る「吉見いちご」の産地として広く知られている。
吉見百穴(よしみひゃくあな)を動画でご覧ください。
撮影日: 2026年7月20日
撮影場所:吉見百穴(よしみひゃくあな)
住所:埼玉県比企郡吉見町北吉見324番地











